― 人間は、自分がされたらどう感じるかを、本当に考えているのだろうか。―
人は、命をいただいて生きています。
それは紛れもない事実です。
私もその一人です。
だから、この文章は誰かを裁くために書くものではありません。
むしろ、自分自身に向けた問いです。
食肉用の牛。
メスは未経産。
オスは去勢。
私は、その事実を知ったとき、胸の奥が静かに痛みました。
「かわいそうだから」ではありません。
「畜産は悪い」と言いたいわけでもありません。
私の中で止まらなくなったのは、たった一つの問いでした。
もし、それが私だったら。
その問いを何度繰り返しても、答えは変わりませんでした。
私は受け入れられません。
自分の意思とは関係なく生まれ、自分の意思とは関係なく人生を決められ、自分の意思とは関係なく命の終わりまで決められる。
それを、自分が望むことはありません。
では、なぜ人間は他者には、それを当然のように求められるのでしょうか。
人間は「知性のある生き物」だと言われます。
未来を考えることができる。
相手の立場を想像することができる。
善悪を議論することもできる。
それでも私は、時々思います。
人間は、本当に相手の立場で考えているのだろうか。
それとも、自分たちの立場からしか考えていないのだろうか。
人間は言葉を進化させました。
しかし私は、別のものも進化させたと思っています。
自分を納得させる言葉です。
「利用する」
「管理する」
「効率化する」
「合理化する」
どれも社会では当たり前に使われています。
でも、この言葉を選んだのは誰でしょう。
利用される側ではありません。
管理される側でもありません。
いつも、利用する側です。
言葉は便利です。
便利だからこそ、現実をやわらかく包み込みます。
そして、時には良心まで静かに眠らせます。
私は「利用」という言葉を聞くたびに、そこに隠れてしまったものを探したくなります。
世の中では、コミュニケーション能力が大切だと言われます。
話し方。
聞き方。
伝え方。
私は、それを否定しません。
でも、それは技術です。
私は、人が本当に伝えているものは、言葉ではないと思っています。
昔から、人と話をすると、言葉よりも、その奥にあるものが気になりました。
優しい言葉を話していても、冷たさを感じる人がいます。
厳しい言葉なのに、不思議と安心できる人もいます。
私は、それを「言霊」と呼んでいます。
言葉に宿るものではなく、その人の生き方が言葉に滲み出るものです。
だから私は、会話をすると疲れることがあります。
耳で聞いているのではありません。
その人が、どんな人なのかを感じ取ろうとしてしまうからです。
子どもの頃から、私は少し変わった子どもでした。
物にも、機械にも、何かが宿っているように感じていました。
今でも、設備の前に立つと「今日は何か違う」と感じることがあります。
点検すると、本当に異常が見つかることがあります。
私は特別な力があるとは思っていません。
ただ、小さな変化を見逃せないだけなのだと思います。
人も同じです。
機械も同じです。
大きく壊れる前には、小さなサインがあります。
人も、大きく傷つく前に、小さな沈黙があります。
その小さな声を、私は聞き逃したくありません。
神社へ行くと、心が静かになります。
特別な理由はありません。
歓迎されているとも思いません。
ただ、自分らしくいられるのです。
一方、お寺では、私は疲れてしまいます。
体が重くなり、頭が痛くなり、心まで沈みます。
さらに、お寺へ行こうとすると、不思議と予定が崩れたり、思わぬ出来事が起きたりして、行けなくなることが何度もありました。
その理由は分かりません。
私は、その理由を証明したいわけでもありません。
ただ、自分が感じたことを、自分自身に対して嘘だけはつきたくないのです。
私は、この文章で答えを伝えたいのではありません。
答えは、人それぞれ違っていい。
ただ、一つだけ、読んでくださったあなたに問いがあります。
あなたは、自分がされたらどう感じるかを、どれだけ考えて生きていますか。
家族に。
職場で。
動物に。
自然に。
そして、自分自身に。
人間は、便利な言葉をたくさん作りました。
でも、本当に必要なのは、新しい言葉ではないのかもしれません。
必要なのは、一度立ち止まり、相手の立場から世界を見ること。
それができたとき、初めて「コミュニケーション」という言葉に意味が生まれるのだと、私は思っています。
この文章を読み終えたあとも、私はあなたに結論を渡しません。
ただ、一つの問いだけを残します。
もし、あなたが牛だったら。
その問いに正解はありません。
だからこそ、人は一生をかけて考える価値があるのだと思います。

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